2015年9月1日火曜日

日本のこの数十年の手織を整理してみる-1.はじめに

たいそうな「題」になりました。題名負けする気がしますが、書きはじめてみました。

手織りや織機のことを書くと、勝手なことを、いい加減なを・・・・と不愉快に感じる方が少なくないと聞きます。たぶん他の考えを書いた本や文章がすくないので、イエスかノーの判断をするしかないためだろうと思います。

手織に詳しいという方々からさまざまなコメントをいただいたことがきっかけで、「今の手織のあたりまえ・・・」に感じた疑問をつなげあわせて、整理しようと試みました。全6編です。

文中に誤解や間違いなどお気づきの箇所があれば、ご指摘やご教授は頂戴したいと思いますが、訂正や添削はご遠慮ください。
・・・・捧ぐ・・・・811・・・・20・・・・15・・・・811・・・・20・・・・15・・・・811・・・・20・・・・15・・・・811・・・明日へ・・・・

織の歴史は古い。織物が始まったのは、石器時代からとか、人が人間になる前からとか・・・・よく書いてあります。神代に錦(にしき)を織ったとか、虫も織っていたとか(蜘蛛の巣のことか?)は、あまりにロマンチック。

前田亮著『手織機の研究』平成4年5月発行 よると、織は農閑期の仕事だったという。稲作地域では、冬の仕事。麦栽培地域では、夏の仕事。羊を飼う土地では、男の仕事なのだそうです。

日本は農耕文化ですから、稲作と共に織と織機は伝わったということになります。庶民の着物の「縞」も「島」から変化したという説がありますし、「絣」も東南アジアに数多くある技法。稲作と共に伝来したのは、間違いないと思います。

戦後になり洋装や洋服が入ってくるまで、農家では、一家に一台・・・・織機はあったらしいのです。女が家事の一つとして、家族の着物を織っていた・・・・これが、今の「趣味の手織」のルーツと考えたほうがよさそうです。

日本の手織の基本は、「着尺」。正座をしたりするので、当然、しっかりとした「平織」が基本。ですから、踏み木のある織機では、ろくろ式が最も無駄がなく使いやすく、適していることになります。
組織を変化させて柄を織ると糸が飛び、しっかりとつまった布地ではなくなりますから、日常の着物には適さない。めがね織や吉野織は、羽織や帯に使われていたような記憶があります。

柄織・・・・錦、金襴、緞子・・・権力者のためのきらびやかな布地は、大陸から職人ともに伝来し、専門家の手によって織られています。庶民のあこがれだったろうと思いますが、ちょっと「見せてください」ちょっと「教えてください」など、昔も今も、どう考えてもできそうにありません。稲作と共に伝わった庶民の手織とは、織る人も、着る人も、ルーツからも、明らかに別の世界です。
おおざっぱですが、手で織機を使って織るという流れを大きく3つに想定してみました。

南方から伝わり、農民や庶民の着物をろくろ式織機で織るという現在の手織のルーツ。2番目は、大陸から伝わった身分の高い人のため錦などの柄織。これらの意匠や組織は動力機を使用して生産を始めたときに参考にしたと考えられます。最後は、欧州に伝わる手織。これが本来の機械化や工業化のソフトのベースのように思います。(この他にも、工場で生産される布地には、シーツ地やプリントに使う無地、裏地、資材などがありますが、特に大量生産に価値があると思われるこれらは、別にします。)

さて、「手織りを楽しみたい」「手織りの職人や工芸家をめざす」「手織りで基礎を学んでテキスタイルデザイナーになる」・・・したいことや目的はさまざまです。

わたしは、すでに引退して、「若いときに習った日本の手織は、なぜわかりにくかったのか?」という疑問の答えをさがして、一から見直しをしているのですが・・・・留学経験者も多くなり、インターネットの普及も影響して断片的な知識が増えているようです。国内の手織りはいろいろ入り乱れて、さらにわかりにくくなっているような気がします。

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