2015年9月22日火曜日

日本のこの数十年の手織りを整理してみる―5.織機は輸入するけれど

年を経て3年ほど前から再び始めた手織り。多綜絖を織ってみたいと織機や部品を検索しました。

日本でも、海外の織機メーカーと代理店契約を結び、織機を輸入販売している会社は数社あると思います.。HPに織機や部品の写真と価格があっても、手織りについての基本的な説明や相談窓口はみあたりません。ショップなどで展示して販売している所は、あるのでしょうか? 

結局、購入する必要があったのは、部品だけで、スウエーデン製の織機のアメリカの代理店から。中途半端な英語の人が、相談する場合には、英語が母国語の人のほうが安心でした。そして、HPもわかりやすく、必要な基本的な事々は書いてあり、アドバイスも適切でした。

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日本で織機を輸入販売している会社は、先生方の注文に応じて、海外から輸入し、学校やお教室に納入するまでが主な仕事のようです。ですから、輸入販売というより輸入業。

注文主あてに納入されてしまいますから、欧米の手作り感覚のしゃれた品があたり前のように街にあふれているのに、「こんな織機で、こんな布が織りたい」と、実際に目で見て憧れる場所もチャンスもないようです。床置きの織機は場所をとるから・・・・売れないから・・・・手織は簡単にはできないから・・・ということらしいのです。

ですから、織機を使って手織りをしたかったら、まず学校や教室を探して入会し、生徒になり手織りを勉強し、その後、先生に相談して織機を選定してもらうのが慣習のようです。販売という点から見ればお教室や学校がショップやショールームの役目をしていると思うこともできそうなのですが・・・。

お教室では、平織、綾織、M''s&O'sは吉野織、オーバーショットはよこ刺し子・・・・初歩的でどこでもある組織を教えているところがほとんどのようです。伸縮性があるウールでこの組織を織るのなら、ろくろ式、天秤式(カウンターマーチ)、ジャックルーム・・・どの織機でもそれなりに織れますから機種にこだわる必要もありません。
織り方を学べても、それぞれの特徴や使い方を的確に説明するショップやショールームの役目を期待できるとは思えません。そして、お教室は簡単には見学させてもらえない所。

普通の人が、動いている織機が見れて試せるのは、観光地の「体験お土産づくりコーナー」ばかり。日本の昔ながらのトンパタリです。手織りのイメージは、変わるはずもありません。
織機は、その土地の風土や文化に関連して発達した歴史があるといつも思います。知識を整理するときも、織りたいもの、学びたい方向を決めるときも軸になります。
織機と使い方⇔組織図の論理⇔さまざまな組織・・・この3つは当然、密接に関連しています。

国内では、使われる組織は大体決まっていて、組織図から綜絖通しやタイアップを書きおこすことが「織機の使い方の説明」のようになり、使う織機はろくろ式かな?天秤式と書いておけば、どんな組織も織れるだろう・・・・と割り当てたような印象さえあります。

ですから、天秤式(カウンターマーチ)は、最も優れた織機だと思って購入しても、基本的な組織を織る人には、準備に手間ばかりがかかり、イラついたり、がっかりしたり・・・。
でも、輸入業者は、織機だけを輸入。スウエーデンへ織物留学をした方も多いようですから、海外の手織に関するソフト面/知識はこの方々からと期待したのでしょう。でも、基本は家庭での手織ですから、構造が簡易な4枚綜絖のカウンターバランスをメインに学ぶようです。

しかし、日本ではなぜか海外の織機といえば、まずは北欧のカウンターマーチ(天秤式)。この織機の特徴である多綜絖の織を北欧で学んだ方はどの程度いらっしゃるのでしょうか?また、多綜絖に関しては、書籍を見るとジャックルームが主流の米国のほうが研究がすすんでいるようで、直接に習ったかたもいるようなのですが・・・。

たぶん、織り柄の布を織る機械の原型と思われるカウンターマーチ式織機。この織機で組織図と組織を学び、使い方も学べば、欧米の標準が理解でき、国内の手織りは、選択肢が増え、愛好家も増えて、これほど停滞することはなかったでしょう。

織物や柄、織るため道具の歴史は、世界中にあり、紀元前から。歴史も発想もさまざまに積み重ねられてきたはずです。個人が思いつくのは、残念ながら、裏ワザとか、知恵袋程度。人ひとりが一生かけて懸命に考えても、たどり着けるようなものではありません。欧米の織機の改良や使い方を思案するより、基本を学び、魅力的な織物を考え、織ることに時間と頭を使いたいのです。


※文中誤解や間違いでお気づきの箇所があり、ご指摘やご教授等をくださる場合には、手織りを学んだのは、米国式、北欧式、日本式のいづれなのかと経歴などのプロフィールをお書き添えください。この文への訂正、添削はご遠慮ください。投稿は簡潔にお願いいたします。

2015年9月15日火曜日

日本のこの数十年の手織りを整理してみる―4.輸入した織機で織ったもの

1970~80年代の海外の抽象的なタぺストリーやファイバーアートの影響をうけて、芸術や美術という名のつく学校での手織は、オリジナリティーの表現や芸術作品を作るための技法になったようです。彫刻や絵画の抽象芸術の仲間入りをしたように見えました。

広幅で躯体がしっかりとした北欧のカウンターマーチ式(天秤式)織機は、専門の大学などでペストリーやアート作品などを制作するために、こぞって購入したと聞きます。欧米に倣ったのかもしれませんが、タペストリーしか制作できない竪機と異なり、綾織や変化組織も織れる「多用途の織機」ということも理由だったようです。もしかすると、欧米では、身近にあった織機だったからという理由でアート作品の制作に使われたようにも思えます。ちょうど、日本人が身近にあるろくろ式で海外の織り柄を織れないかと試したように・・・。

中世のタペストリーは、装飾だけでなく、城の石壁から伝わる冷気を和らげる役目があったという話ですが、エアコンの効いた現代空間では、ウールを使う必然性もなく・・・案の定、より自由な芸術的な創作活動には、平行に規則正しく張られた経糸すら制約となったようで、オフルーム/織機を使わない創作へと移っていったように見えます。

一方で、織機が動いて布が織れるのがおもしろいから、手織りが好きだという方もいるようです。織機のしくみや分類に熱中して、いろいろな織機を次々と購入する人もいるようです。

織機で何か織りたい・・・・ではなく、こんな布が欲しいから、欲しい布をうまく織れる織機が必要というのが、本来の順番だろうと思います。織機は「道具」ですから。
その土地で収穫できる素材を使い、その土地の生活に使うための布を織る。ぐあいよく織れるようにと織機もそれにあわせて改良される・・・織機や織物の本を読むと、環境に適応して変化し、進化していくありさまは、遺伝子の進化の歴史のようにも感じられます。これに気付かずに、織物を教えたり、習ったりは混乱するばかりのようで・・・。

日本では、。絹や麻、綿で着物にする生地を織ってきました。
北欧では、麻を使い、キッチンやダイニング、家庭で使うハンドタオルやテーブルクロスなどを主に織り、娘が結婚するするときに持たせたとか。
北米では、移民した人たちは、寒さを防ぐために、ベットカバーを織り、毛布の上掛けにも使った。ですから、綿や麻の経糸にウールを織りこみ、大きな柄を競って織ったとか。

サテンのテーブルリネンもベットカバーも、柄があると素敵な一枚になります。組織で柄を織りだすために、8枚ほどの綜絖が制約なしに自由に動く「カウンターマーチ式」の織機が最適だったと思います。

柄を織りだすために、糸が飛び組織がゆるくなってもハンドタオルは柔らかくなり、ベットカバーは厚みをまして暖かくなる・・・・・。しっかりとした平織が適している着物地とは、求める生地の意匠性も性質も全くことなります。当然、織機に求める性能も全く異なります。生活のしかたの違いということになるのでしょう。

家庭で受け継がれてきた手織と文化をそのまま紹介したのが、山梨幹子著に代表される「スウエーデン織り」。色彩も柄も美しいのですが、織物の組織をもっと専門的に学びたいと思う人には、もの足りません。

しかし、国内で欧米式の組織の解説書を見かけたことがありません。
芸術や美術という名のつく学校でよく使われているというカウンターマーチ式の織機。『1本の踏み木に綜絖を何枚つないでも開口がスムース』という説明はよくありますが、柄を作り織るために・・・というこの織機の特性は、どの程度まで認識されていたのでしょうか?
教えている学校はあるのでしょうか?使用しているテキストは外部秘?ろくろ式よりもわかりにくいからと執筆する人がいない?読みたいと思う人がいないから出版されない?海外の本からは組織図だけを見れば同じ布が織れれば満足だから?

欧米の作品も装丁も美しく、説明もわかりやすい書籍の著者の経歴を見ると、ほとんどがテキスタイルデザイナーと教師を兼務している方です。論理と時代にあわせたセンスの両面を磨いているのだろうと思います。

この日本で、もし、手織りは「経糸と緯糸の交差を楽しむだけのノスタルジックな高齢者の趣味になった。」という評価があるのなら・・・・・この数十年は、大きな空白の部分が残されたままだったのかもしれないという疑問が残ります。

※文中誤解や間違いでお気づきの箇所があり、ご指摘やご教授等をくださる場合には、手織りを学んだのは、米国式、北欧式、日本式のいづれなのかと経歴などのプロフィールをお書き添えください。この文への訂正、添削はご遠慮ください。

2015年9月8日火曜日

日本のこの数十年の手織りを整理してみる-3.組織図は工場から

組織図は、「織の設計図」と言われています。,では、誰がこれから織る布のイメージを具体的な組織図として描くのかという疑問もあるのですが・・・・。

白黒に塗られた方眼を「組織図」と呼び、周囲に、綜絖通し順とタイアップ、踏み木順がついているのを「完全組織図」というらしいのですが、本や人により呼び方が違うようです。「方眼の組織図」・・・・海外の組織の解説書には、必ずありますが、普通の手織の本で見ることはあまりみかけません。

「増補 織物意匠法」昭和56年たぶん再版 を見ると、白黒の方眼でいろいろな組織と名称、組織図の経糸は黒、朱子は裏織にする理由や組織図を描くための布地の分解のしかたなどがかかれています。たぶんこれがジャカード工場の意匠関係の基礎知識。国内の手織りの本で、なぜここまでむつかしいことを・・・と感じる用語や組織がほぼすべて書いてあります。

日本にも導入された柄織の動力による機械化、大量生産の基礎はヨーロッパの手織機と組織のノウハウだったと考えるのが自然です。欧米の滑車式も日本のろくろ式も庶民が生活に使う布が簡単に織れる構造の織機ですから、複雑な織り柄や詳しい組織図など なかった/いらなかった と思えるのです。

しかし、2段吊り3本ろくろ式織り機の登場で、4枚綜絖でいろいろな組織が織れ、海外からも目新しい布が入ってくるようになれば、組織図の知識や説明も必要になる・・・日本で使われていたたろくろ式の手織りに、海外から生産機と共に入ってきた組織のノウハウ を接ぎ合わせたと考えると、疑問や矛盾にほぼ説明がつきます。

2段吊り3本ろくろ式織り機は、柄を織るにもそれなりに優れて、それなりに柄も織れたので、わざわざ欧米の織機に買いかえて改めて欧米の知識を学ぶなど思い付かなかった・・・・使い慣れた道具をかえることは、勇気がいります。ただ、やってみると、無理や矛盾がなく非常に自然です。

ろくろ式の織機では、踏み木と結んだ綜絖は下がり、緯糸が表面に出るのですが、組織図の経糸は「黒」という 生産現場の決まり にしたがったために、欧米とは異なる、「それ以外の部分を黒く塗る」という生理的には描きにくい書き方になったのだろうと思います。この書きかたは、欧米の手織の標準とは異なります。柄の出かたや糸飛びの確認に使うのなら、どちらが白か黒かにはあまりこだわる必要はない訳です。

日本の手織の入門書には、一般的なろくろ式4枚綜絖の織機では織れない8枚綜絖や16枚綜絖の組織図が基本組織として数多くのっていたりします。工場の資料集から抜粋したような組織図です。生産現場の都合からくる「朱子組織は裏でかく」という説明まであったりします。

組織図の使い方では、最初に組織図から綜絖通しと踏み木順を書きだす方法が説明されます。この組織を織るために、まず必要な手順ということだと思いますが、欧米では、綜絖通し順だけで柄を伝えあうこともあったようですから、綜絖通し順から組織図を描きおこすことが重視されます。

また、せっかく描いた組織図(意匠図)とは、上下が逆になるのに、踏み木順は上から順番に踏むという説明もあります。さすがに、織りにくいので、「組織図に上下がない場合」と書き足してある場合もあります。でしたら、どのような柄でもいつも下から順番に踏めばよいだけのこと。たぶん、動力機のビームからはずして検反するときに柄の上下が正しいと見やすいからではないかと思います。

織機の開口の説明に使われる「上口・中口・下口」も生産現場の動力機の性能を表すに使われる用語です。和訳をするときに流用して誤訳を生んでいます。

二重織の組織図はわかりにくいので、海外では手織の場合、組織図を使わない説明が多いのですが、日本では、やはり組織図の説明が必ずあります。さまざまな朱子の組織点の割り出し方など、組織図の読み書きを専門的に理解することが必要とされているようです。

専門性に価値があるのかもしれませんが、ジャカードの部分組織に使うわけでもないのに、一見ほとんど同じとも思える微妙な違いの組織から1つを選んで、多綜絖の織機で手織りするとなると、かなりストイックなことになりそうです。

日本の海外風の手織りは、直接欧米の手織りには学ばず、工場に意匠に学び、織機の構造の用語までも参考にしたため、いまだにより高度な知識はさらに生産の現場から学ぶという意識が抜けないのではないかと思ったりします。

手織で学びたいのは、用途(マフラー、ランチョン、ひざかけ・・・)にあった素材や組織や色の組合わせかた。手織だから・・・複雑だから・・・といわなくても、ちょっとすてきだなと思えるものが織りたいと思いませんか。


手織で柄や組織をメインにシンプルに織ってみたかったら・・・・。
柄を織るために、生まれ、進化してきた「綜絖の1枚1枚が制約なく動く織機」を使って、一緒に進化してきた組織の考え方を学んでみるがよいと思います。ろくろ式で学んできた人は一度リセットして見る・・・。学校やお教室、日本語の解説書とか、あるとは思うのですが。

織と織機は、人間よりも長い進化の歴史があるといいます。ろくろ式とカウンターマーチ式、着物と洋服、下駄と靴、和食と洋食、日本語とゲルマン系の言語・・・・東洋と西洋の文化の違いなのだろうと思います。


※文中誤解や間違いでお気づきの箇所があり、ご指摘やご教授等をくださる場合には、手織りを学んだのは、米国式、北欧式、日本式のいづれなのかと経歴などのプロフィールをお書き添えください。この文への訂正、添削はご遠慮ください。

2015年9月4日金曜日

日本のこの数十年の手織を整理してみる―2.洋風の始まり

洋装が一時の気まぐれではなく、洋服や洋間での生活が日常であり、普通になった頃かと思います。

手織りのやりかたと洋風の作品も加えた著者の集大成という印象さえする本 土肥悦子著「基礎技術から応用まで 手織り」.昭和51年 が出版されています。 ショール、上着、ロングドレス、カーテン、壁掛け、敷物、ノッティング、オーバーショットやローゼンゴンの技法もあり、当時の 新しい手織り を感じる本です。家に着物を織っていた織機があり、「新しいテクニック」を覚えば、「新しいものがつくれる」は、誰もがやってみたいと思うでしょうから、多くの支持を得たと想像できます。

この本のように、3本ろくろ2段吊りの4枚綜絖織機を使用すると、綜絖の3枚対1枚の動きが可能になり、「洋風の織物が織れる」ことを紹介し広めたのだろうと思います。しかし、この2段吊りは、どうやら日本独自のスタイルで、いわばガラパゴス的(否定でも肯定でもありません。)
「この組織を織るためにどのようにろくろを吊ればよいのか」・・・という工夫から始まっているようで、西欧の「柄や組織を自由に織りだすために、1枚1枚の綜絖を制約なく動かしたい。」とは、織り上がる布は同じでも、発想には大きな違いがあります。本には、組織と織り方の説明は詳しく書いてありますが、欧米の入門書のような系統立てた説明はありません。

このブログを見て、ろくろ式で組織を少し学んだ人は、「すごく組織のことを勉強している。」と思うかもしれませんが、欧米の基本的な手織を初歩から順番に織っているだけです。欧米風の手織りをするにはもっと組織を学ばなければ・・・と組織ばかりを気にしたり、組織と覚えた名前の数が多ければ、それだけで「海外の手織りに詳しい」とか「今風の手織り」と思ったりするのは、おかしなことです。色彩や素材、何を作るかも大切ですから。

さて、組織図の綜絖通し、踏み木順、結び(タイアップ)の3要素は、たしかに世界共通といわれています。組織の使いかた、書きかた、使う記号・・・すべて世界共通。で、手織の場合と工場の場合も、同じく共通と思ったようです。日本の手織は、組織の基本や使い方は工場から学んだようで、国や年代によりあきらかに違うという記号も個人的な好みや先生から習ったからという理由で取り混ぜて使い続けているようです。

次に、使用する糸は着尺1反分で購入することがたぶん一般的だったと思われるのですが、織りたいものにあわせて必要な糸量の計算しかたを考えなければならず、そのためには、主に工場生産で使われていた番手の知識も必要になっただろうと想像できます。

新しい手織をしたいと思った人は、工場での組織図の基礎と使い方をまなび、準備のしかたを参考にし、ろくろの本数を増やし・・・欧米のような布を再現するために、それぞれの人がそれぞれに多くの時間を費やし、試行錯誤と挑戦を繰り返したのだろうと想像できます。ジャカード機で織ったのだろうとあきらめもしたのでしょう。

ろくろ式とは綜絖を上下させる構造が全く異なるカウンターマーチ式の織機なら簡単に織れるということに気づいていたのでしょうか?

「天秤式」の名称で、北欧と同じ構造のカウンターマーチの国産品も登場しました。岸田幸吉著「ウィーヴ・ノート」1978年だけを参考にして、どこまで欧米のような発想で使いこなせたのかは、わかりません。

欧米の織機の使い方や織の基本の違いに気づき、そのまま学べば、柄や組織を作り、純粋に織ることが楽しめたはずです。道具、組織に加えて、多様な素材使い・・・独自の工夫や試行錯誤を大切にしたことで、着物を織らない手織りは必要以上に「高度」で「複雑」になってしまった面もあり、和風のような洋風のような・・・「とらえどころのないもの」に映ることさえあります。
洋服は、ミシンも、布地も、型紙も、海外から取り入れ、日本人の体型にあうように工夫し、日常にとけこんだのですが、手織は、身近な着物の丈を短くし、ボタンやポケットをつけるような工夫をしていたのかもしれません。時代が違いますから、「良い/悪い」と簡単に言うべきことではありません。どのように認識して、どのように受け継いできたのか・・・。

それから約37~39年がすぎ、手織に限らず日常の手仕事は少なくなっていますが、ファッションのように、多様な発展と新しい支持を得られたのか・・・。今の生活にふさわしい「実用的で美しい布」を織るために大切なことは、空白のままのようにも思えます。

※文中誤解や間違いでお気づきの箇所があり、ご指摘やご教授等をくださる場合には、手織りを学んだのは、米国式、北欧式、日本式のいづれなのかと経歴などのプロフィールをお書き添えください。掲載文への訂正、添削はご遠慮ください。

2015年9月1日火曜日

日本のこの数十年の手織を整理してみる-1.はじめに

たいそうな「題」になりました。題名負けする気がしますが、書きはじめてみました。

手織りや織機のことを書くと、勝手なことを、いい加減なを・・・・と不愉快に感じる方が少なくないと聞きます。たぶん他の考えを書いた本や文章がすくないので、イエスかノーの判断をするしかないためだろうと思います。

手織に詳しいという方々からさまざまなコメントをいただいたことがきっかけで、「今の手織のあたりまえ・・・」に感じた疑問をつなげあわせて、整理しようと試みました。全6編です。

文中に誤解や間違いなどお気づきの箇所があれば、ご指摘やご教授は頂戴したいと思いますが、訂正や添削はご遠慮ください。
・・・・捧ぐ・・・・811・・・・20・・・・15・・・・811・・・・20・・・・15・・・・811・・・・20・・・・15・・・・811・・・明日へ・・・・

織の歴史は古い。織物が始まったのは、石器時代からとか、人が人間になる前からとか・・・・よく書いてあります。神代に錦(にしき)を織ったとか、虫も織っていたとか(蜘蛛の巣のことか?)は、あまりにロマンチック。

前田亮著『手織機の研究』平成4年5月発行 よると、織は農閑期の仕事だったという。稲作地域では、冬の仕事。麦栽培地域では、夏の仕事。羊を飼う土地では、男の仕事なのだそうです。

日本は農耕文化ですから、稲作と共に織と織機は伝わったということになります。庶民の着物の「縞」も「島」から変化したという説がありますし、「絣」も東南アジアに数多くある技法。稲作と共に伝来したのは、間違いないと思います。

戦後になり洋装や洋服が入ってくるまで、農家では、一家に一台・・・・織機はあったらしいのです。女が家事の一つとして、家族の着物を織っていた・・・・これが、今の「趣味の手織」のルーツと考えたほうがよさそうです。

日本の手織の基本は、「着尺」。正座をしたりするので、当然、しっかりとした「平織」が基本。ですから、踏み木のある織機では、ろくろ式が最も無駄がなく使いやすく、適していることになります。
組織を変化させて柄を織ると糸が飛び、しっかりとつまった布地ではなくなりますから、日常の着物には適さない。めがね織や吉野織は、羽織や帯に使われていたような記憶があります。

柄織・・・・錦、金襴、緞子・・・権力者のためのきらびやかな布地は、大陸から職人ともに伝来し、専門家の手によって織られています。庶民のあこがれだったろうと思いますが、ちょっと「見せてください」ちょっと「教えてください」など、昔も今も、どう考えてもできそうにありません。稲作と共に伝わった庶民の手織とは、織る人も、着る人も、ルーツからも、明らかに別の世界です。
おおざっぱですが、手で織機を使って織るという流れを大きく3つに想定してみました。

南方から伝わり、農民や庶民の着物をろくろ式織機で織るという現在の手織のルーツ。2番目は、大陸から伝わった身分の高い人のため錦などの柄織。これらの意匠や組織は動力機を使用して生産を始めたときに参考にしたと考えられます。最後は、欧州に伝わる手織。これが本来の機械化や工業化のソフトのベースのように思います。(この他にも、工場で生産される布地には、シーツ地やプリントに使う無地、裏地、資材などがありますが、特に大量生産に価値があると思われるこれらは、別にします。)

さて、「手織りを楽しみたい」「手織りの職人や工芸家をめざす」「手織りで基礎を学んでテキスタイルデザイナーになる」・・・したいことや目的はさまざまです。

わたしは、すでに引退して、「若いときに習った日本の手織は、なぜわかりにくかったのか?」という疑問の答えをさがして、一から見直しをしているのですが・・・・留学経験者も多くなり、インターネットの普及も影響して断片的な知識が増えているようです。国内の手織りはいろいろ入り乱れて、さらにわかりにくくなっているような気がします。