2016年11月22日火曜日

大量生産の卵の芽

セーターを編んでいました。

着るセーターがなくなったので、サイズが合わなくなったセーターをほどいて、カセにして、洗って、玉に巻いて、編み始める・・・・趣味や楽しみというより、必要に迫られて。

何気なくつけていたテレビからは、「家で編物をしていた時代とはことなり・・・・・」と聞こえてきます。どうやら、欧米の教授による「資本主義」とか「経済」とかの話らしい。
ん?家族が着るセーターを購入しないで、家族が編んでいた時代は、「資本主義以前」ということ?

このところ、EU離脱とか、米国大統領選挙とか、政治や経済関連のニュースがひっきりなし。
政治も経済も資本主義とやらも、わたしには、見上げても見過ごしてしまう青空の薄い雲のようなものなのだったのですが。



石炭や電気を使う動力がくわわり、「より早く大量に生産できるようになって、隣の村へ売りに行き、遠くの大きな町で売り・・・・さらに、もっと早く、もっと大量に生産して、世界中に販売して・・・・お金をたくさん得る。」ということが、資本主義と関係するらしい。

我が家にいる織機(注;踏み木のある天秤式)も「容易」に「たくさん」と進化してきた・・・・最初の「機械」という説を読んだ記憶だあります。

整経、綜絖通し、筬通し、縦糸のロス、織り始めの調整などは何m織る場合も同じ作業。ですから、少なくとも4~5m程度は織らないと考えると、マフラーも2本織りあがってしまう・・・。

「多少のロスがあっても大量に」と考える資本主義の「卵の芽」のような存在が織機なのかもしれません。

手編みは、つましく優雅な趣味になったように思えるけれど、織機という機械を使う手織りには、量産とか効率とかいう「性」が宿っているように思えてきます。

一縦で、一反となる着尺を織ったら、また違う感じがするかもしれません。

それにしても、手織りをしたら、経済をちょっと身近に感じることになろうとは・・・・。


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